落人の里を行く

突然に思い立って冬の能登と五箇山へ。
なぜか落人の里を駆け足で辿ることに。


奥能登を行く

日本のど真ん中を縦断する
- 合掌造の里へ:庄川を上り、長良川を下る -
相倉集落
白川郷・荻町
山から里へ

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  奥能登 - 輪島と曽々木

北陸本線、津幡の駅から、朝8時半、急行「能登路」で輪島に向かう。

うす紫のスーツを着たおやじが斜め前の席で寝ている。おおきなアタッシュケースをもった2人組。温泉目当ての女性グループ。先に発車した普通電車は通学の生徒で占拠されていたが、この列車はすでに日常から切り離されている。

宇ノ気:駅の看板に「西田幾太郎の生地」と書かれている。右手に宝達山を見ながら、白サギや渡りの鳥が見え隠れする田んぼのなかを進む。

和倉温泉までが JR。その先はのと鉄道の管轄となる。おだやかな七尾の湾の漁を眺めながら、 穴水を過ぎで、山に入る。

半島北部の低い山を越えるときに、雪囲いをした家々がみられたが、少し下ると雪も消えてしまう。輪島に降りると、もう雪はなかった。駅舎の中で駅員と近所の人がストーブを囲んで話し込んでいる。切符も列車のなかで回収されたので、駅員はでてこない。

能登の朝市

能登の町は歩いて回れる。駅から10分ほど歩くと、町の中心。朝市の立つ通りにでる。5mほどの道の両脇に、おばさん達がリヤカーを出したり、出店をだしている。魚や干物、海草、うにの瓶詰め、地元の野菜(かぶが多かった)、唐辛子、ミニわらじなどの手工芸おみやげ、輪島塗りの店など、などが2ブロックほどの間に並んでいる。もう11時を過ぎていたせいか、観光客の数は少なく地元の人もあまりみかけない。でも、おばちゃん達はなんとか売り込もうと元気だ。

「こうてんなー」
朝市の通りをはずれた路地でも、リヤカーがいた。「魚」、干物がぶらさがったリヤカーをゆっくり移動させながら、売って歩く。なじみの家の玄関をあけて、中に向かって叫ぶ。「魚こうてんなー」。

朝市から引き上げるおばさんが、ひ「ニり、またひとり、と背中をまげたまま、確実な足取りで家路に向かう。

キリコ

とにかくでかい!
輪島の町外れに、キリコ会館がある。暗い中に入ると、高さ10mを超えるキリコが目の前に並んでいる。キリコは、能登の夏秋の祭りだ。キリコ(切籠=切子燈籠)と呼ばれる巨大な御神灯を神輿のお供に担ぎ出す。今では、電線が張られるようになり、高さ4m〜6mくらいだという。能登の太鼓が響くなか、キリコを眺めていると、祭りの中に紛れ込んだようだ。

曽々木へ

輪島から宇出津行きのバスで海岸沿いを走り、曽々木に向かう。海は穏やかで青い。冬の日本海、というよりは、春の瀬戸内海のようだ。遠くに島影も見える。道は切り立った崖を避け、山の上を走るようになる。左手に海、右手に雪をかぶった山。棚田も多い。
途中、白米の千枚田を左手に見下ろす。想像していたよりも小さい。それだけ1枚の大きさも小さいということで、ますます農作業は大変であっただろう。と思う間に、千枚だは視界から消えた。

バスにゆられて30分。少し開けた場所に出る。曽々木だ。

その昔、平家が壇ノ浦で敗れ、各地に落ちていった。その中で、平時国が落ちた場所がここ、曽々木だった。向こう側に岩倉山、こちら側の低い山に囲まれた幅1km程度のところ、真ん中に川がながれ、田んぼが広がっている。 ああ、本当に落ちて住み着くには絶好の場所だ、と思えるような落ち着いた雰囲気の場所だった。

落人の里

バス停から、田んぼの中を南に歩くこと10分、昔の庄屋 「南惣」の集古館を訪ねる。 俵屋宗達、円山応挙、雪舟、狩野探幽、後鳥羽天皇。。。 倉の中には、地元の産物や北前船の貿易などで培われた美術・茶道の品々が並んでいた。かなり裕福だったのだろう。何代にも渡って、この家の人々はなにを思ってここまで集めたのだろうか。倉からでると、茅葺きの母屋の囲炉裏端でお茶をいただく。何百年も火種を守ってきた囲炉裏だという。部屋の片隅には薪を貯える場所が設えてあった。火の燃える音だけが、黒々とした床板の上から立ち上っていた。

一旦、バス停まで戻り、工事中の端を渡ったあと、曽々木口のバスターミナルへ。さらにまた南に折れて、今度は平時国が住んだという屋敷に向かう。春めいた午後の日差しが、西の方から雪がとけてぬかるんだ中に、切り株だけが並ぶ田んぼを緩めている。

最初に下時国家。正式名称は能登安徳合祀時国家。あとで分家した方の家だという。前田家の代官などをしていたとか。家は江戸時代初期の茅葺き入り母屋造り。農家というより、やはり京の都の書院造りを模した感がある。特に庭をみていると、都を思いながら眺めたのかと思うほど雅だ。

次に、上時国家。「本家」とでかでかと看板に書かれている。どこでも、本家は威張っているのか、茅葺きの建物もかなり大きい。下時国家が宮廷風ならば、こちらは武家風。庭も鎌倉風だ。ここでも、囲炉裏端でお茶をいただく。家の中はしんしんと冷えている。広い土間に続いた台所はまだ使っているらしく、寒そうにおばあさんが生け花の水を取り替えていた。おばさんとひとしきり世間話をして外に出る。まだ外の方がぽかぽかとした感じがする。日がだいぶ西の山に傾いてきていたが、改めて太陽の温かさに感謝する。

畑の夫婦はまだ淡々と作業を続けている。それにしても、落人の里は、どこか「雅」の香がした。

あえのこと - 民俗芸能の宝庫

上時国家に行く前に、民俗資料館に入った。昔の小学校を改造したような、木の建物。受付のおばさんが、私一人のためにストーブをつけ、カセットをかけてくれた。すりっぱに履き替えてあがると、ぎっしりとさまざまなものが展示されている。中にも乗れる籠にはじまり、農作業や、あえのことの再現コーナー、塩田での塩の作り方、輪島塗りの工程、着物、海女の写真、民具等など。民俗資料館としては、なかなか内容が濃い展示だ。

一番びっくりしたのは、御真影を納めていたという収納。まるで仏壇金庫。金庫のように何重にも重い金属の扉があり、中の装飾は仏壇というか神棚というか、さらに覗き穴まで「る。神棚のオープンさに比べてなんと頑丈な造りなのか。これが戦時中はそこら中の学校にあったのかと思うと、なかなか考えさせられるものだった。

あえのことは、奥能登の各地で行われている、田の神の神事である。田の神を家に迎えて、1年間、田と稲を守ってくださったことに感謝をする。迎え入れは12月5日。袴姿の正装で主が田の神を迎えに行き、神様をお風呂に入れたり、食事を出したし、お客様としてもてなすのだ。正月を家で過ごした神様は2月9日に送り出す。国立民族博物館で展示されていた行事で興味があったのだが、残念ながら時期をはずた。

波の花

夕暮れの海岸にでた。昔は塩田だったという砂浜には、犬の散歩をする人、学校帰りの女子高生、波打ち際でなにか集めている人、小さな集落の割には人が海岸にでている。夕日がゆっくり傾いていく。鷹か鷲かが、数羽、山の上から海にかけての岩場をゆっくり旋回していく。

砂浜を抜け、窓岩をすぎたところ曽々木の集落の民宿に宿を取る。北野屋。客は1人だけだ。窓の外に海がある。この前の海岸線では、冬の荒れた日には、波の花が見られると聞いた。だが、これほど穏やかな日では望む術もない。実際には、波の花が見られるような天気の日には、外にもでたくないと、宿の人は言っていた。そうだと思d。

夜中、ストーブを消すと、窓越しに聞こえる波の音が子守り歌となった。

  合掌造の里

奥能登、曽々木から朝バスで輪島に戻り、再度朝市をひやかした後、のと鉄道で和倉温泉、さらにJRで津幡へ戻る。そこから、北陸本線で高岡へ。途中、倶梨伽羅峠を越える。どこかで聞いた地名だと思ったら、木曽義仲が平家を夜襲した源平合戦の古戦場だった。

高岡の禅寺

高岡に着くと、なんと雨。

駅前からタクシーにのり、瑞龍寺に向かう。禅寺である。タクシーの運転手によると、最近国宝に指定されてから観光客が増えたとか。雨のせいかそれほどでもなかった。

前田利長の菩提寺ということで、ちょっとえらそうな感じだったが、座禅の合間に歩く経行廊(きんひんろう)、禅場の単(たん)にあがる踏床など、禅修行の厳しさは推し量られるが、なにかが息遣いが感じられない。もう使われていないせいであろうか。

高岡から五箇山へ入る

高岡駅前発 16:10pm。加越能鉄道バス。行き先に大きく「白川郷行き」と書かれている。白川郷行きの1日4本のうちの最終バスである。乗客4名。私以外はすべて地元の人だ。路面電車の線路を跨いで、バスは高岡の町を走り出す。

砺波平野にでてゆく。春にはチューリップで埋め尽くされるのだろう。今は灰色の空が降りてきた田んぼと、点在する家々だけが見えている。

バスは途中で乗客を拾ったり、また降ろしたりしながら、次第に平野を奥へ進んでいく。そのうち、遠くに雪を被った山並みが見え始める。夕暮れがじわじわと平野から山へと上って行く。空には曇。山の裾野には、霞がかかっている。霞の上に、雪山が連なる。まるで屏風のようだ。

すでに、辺りは暗く、空にも明かりは残っていない。

城端(じょうはな)の手前で、右手にスキー場のライトが曇った空をぼーっと照らす。城端は、小さいながら、昔ながらの町並みが残っている古めかしいところに見受けられた。高岡をでて1時間半、6時を過ぎた。

城端を過ぎると、山道に入る。 ギアを入れ替えたバスはえんやこらと山を登る。自分が運転しているわけではないが、雪が降っていなくてよかったと思う。それにトンネルができて随分と便がよくなったのだろうとつくづくと思う。トンネルを抜けると、雪が一段を深くなった。

暗闇の中、筒ら折の坂道をくねくねと進みながら、ある曲がり角でバスが止まり、降ろされた。相倉集落は道からさらに奥まったところにあるという。バス停脇に民宿のおじさんが車で迎えにきてくれていた。車で約2分。相倉集落の入り口に。車のライトを消してくれてみた村は、暗闇の中に、窓満かりが浮かび上がって、まるで幻想の世界のようだった。

  相倉集落

合掌造りの民宿

広間の炬燵は、囲炉裏の火種の上に置かれていた。おばあちゃんの傍らで、小学生の男の子がうたた寝をしている。広さは12畳くらいだったか。炬燵の対角にテレビ。ニュースが流れていた。なんとなく外の景色とはそぐわない。

夕飯を炬燵でいただいている間に、火種の炭(豆炭?)を取り出して、湯たんぽ状の2枚貝を割ったような仲に、炭を入れる。周りは石綿で燃えないように工夫してある。ふたをして、袋のなかにくるんで懐炉の出来上がりだ。居間の奥の部屋6畳が泊まる部屋に敷いてもらった布団に懐炉が入った。

夕食後、チベットでの絵巻き作成のドキュメンタリーを観ながら、おばあちゃんがぼそぼそと話しをしてくれた。半分位は声が小さいせいか、方言のせいか、聞き取れない。

「いやあ、夜なべをしないで、こんな風にテレビをみているなんぞ、わしらの姑さんのころはこんなことは考えもしなかった。針をもって繕い物をしたり、つぎはぎしたり。こんな山奥でも、世界のことを見れるようになった。ありがたいことだ。」

「昔は、田んぼにでておっても、お日様のある方向を向いてはありがたいことだと拝む。夜は厠にたつときに月を拝む。でていなくても月があるはずのその方角を拝んでな。」

「昔の人はよく歩いた。どこに行くにも歩きだった。いまじゃ車もあるし、便利になったものだ。」

大阪にでかけたときの話。

「あそこは空がない。ここには空がある。空気もきれいだ。ありがたいことじゃ。」

「切符を切る人がいない。電動の機械に変わってしまって。これじゃ失業者がふえるばかり。」

「何もしないでテレビを見ていられるなんぞ。。。」

話が跡切れかかったころ、突然ばさばさという音がしはじめた。おばさんが入ってきて、「外は大雨ぞ!」といった。暖冬のせいで、雪の合掌の里の景色もみられないのか、とちょっとがっかりしながら床に着く。真っ暗闇の中、雨は茅屋根をばさばさと打ち付けて流れていく。


朝には雪に

障子の向こうがぼーっと明るくなってきた。昨夜までの雨の音はもうしない。

「今朝は雪ぞ。」玄関のガラス越しに外をみると、小雪がちらついていた。
どうやらこの辺は語尾が「〜ぞ。」になるようだ。お嫁さんは嫁いで20年、すっかりなじんだ言葉だ。

散歩にでかけた。8時前の村は、空気がぴんとはっている。トラックででかけようとしているおじさん、ごみをだしにきたおばさん位で、ほとんど人影はない。

子供たちは、冬はスクールバスで通学。学校は2km先。雪がとけると、集団登校。5、6人で学校まで通うのだそうな。合掌造りの前の雪道を、傘をさして女の子が1人、2人とバス停までの道を降りて行く。

その昔、Bruno Taut が五箇山に分け入り、合掌造りの設計の合理性を賞賛したというが、切妻屋根が形作る三角形は確かに見ていて安心できる。昨夜の雨で緩んだのか、雪も茅の屋根をすこしずり落ちている。

屋根の下には必ず水を溜めたり、流したりしている。雪を溶かすためだ。玄関へのアプローチや、車庫前にもホースなどで水をまいて、雪を溶かしている。ちょろちょろと水音が流れ、やがて雪の中に、山の向こうに、音が消えて行く。

こきりこ節。

宿に戻って朝食をいただきながら、民謡のビデオを見せていただく。
五箇山の麦屋節。紋付き袴の侍の井出達で笠を操る。平家の落武者か、百姓というより、公家のしぐさか。

こきりこ節。 小学校か中学で習った。ゆるやかな調べだ。

♪こきりこの竹は 七寸五分じゃ
長いは そでの かなかいじゃ
- 窓のサンサはデデレコデン
- ハレのサンサもデデレコデン

はじめて、サンサといのが、板をつなぎあわせて蛇腹状にした楽器で、両手で取っ手を持ちながら、微妙に揺らしてリズムを奏でるものだということを知った。

コーヒーで一服した後、民俗資料館を見にまた外にでる。まだ雪はちらついているが、だいぶ空が明るくなったせいか、さっきまでのピンとした空気は薄れていた。民族資料館は、小さな合掌造りの家を改造したもので、朝一番のお客を迎えてつけてもらったストーブの向こうで、ハイビジョンの五箇山紹介ビデオが流れている。世界遺産に登録されてから作られたものだった。陳列されたパネルと、古びた民具、ビデオのアンバランス。

バスの出る時間が迫ってきた。
表に出ると、観光バスから、観光客がぞろぞろとはきだされて、村の道を埋めにかかっていた。
集落に泊まってよかったと思った。あの夜の雨音も、炬燵の熱さも、おばあちゃんの世も山話も、まるで遠い昔の御伽噺のように、薄れて行く。

  白川郷-世界遺産

相倉口からバスにのる。乗客2名。普通の乗合バスだというのに、テープからは観光案内、「こきりこ節」、「お小夜節」などが次々に流れる。ところどころに合掌造りの家が2軒、4軒と寄り添って建っているのが見える。庄川の青い流れを右に左に渡りながら、上流へあがっていく。道路はすべて除雪され、小雪も降ったり止んだりとおだやかな天気だ。

世界遺産って

30分ほど走ると、白川の荻町地区に着いた。集落を突っ切るメインストリートには御土産物屋が並んでいる。
裏道から村をぐるっと遠巻きにして、荻町を見下ろす丘に上る。

丘の上で、写真家に出会った。30年以上、この辺りに通っているという。駐車場に停めてあった大宮ナンバーが移動基地らしい。30年前、祭りの写真を撮りにきた彼は、無人となる前の集落に器材を背負ってでかけたことから、この土地にはまってしまったらしい。

「この山の向こう側に歩いて1時間くらいのところにも、昔集落があってね。合掌造りの農家が3軒と小学校。先生一人、生徒一人。冬に雪山を越えて訪ねてくるのは、郵便配達とあんたくらいだとかいわれてね。」「ここに高速「香E驍ニかいって、どこぞの会社が土地を買い占めて、村はなくなったんだけど。高速のインターチェンジは結局あっち側じゃなくて、そこの高台のところにできることになって。あてがはずれたみたいだね。」

「僕が写真を撮ったお年寄りがどんどん死んでゆくんだよね。今朝も菅沼のおじいちゃんのところへ、亡くなったおばあちゃんの写真を引き伸ばしてあげてきたんだけど。最後の写真がないからって喜んではくれたよ。でもねえ。」

小雪の舞う中、この辺りで消えてしまった集落の話や、取材のときの苦労話。山ヒルや獣道。最近、民宿がみんな同じようなメニューになって、どこに泊まっても同じようになったとか。いろいろ話してくれた。

眼下に開けた集落は、合掌造りと普通の家が重なっている。明らかにあとから移してきたと思われる合掌造りもある。土地には地の利があり、昔の人は家を建てるに一番適した場所を見事に当てていた。
蚕を飼い、煙硝を作り、紙漉きをし、一軒の合掌造りは、家族が集い、ともに作業をし、田畑や自然の恵みを最大限に活用する基地として、本当によく考えられた建物だ。田んぼの配置も倉の位置も、合掌の切り妻の向きも、見ていて本当に無駄がない。

「世界遺産になって、確かに外側は昔のままだけど、中はもう民宿やら御土産物屋ならで、昔ながらの作業場の役目は果たしていない。死んでるんだよ。建物が。もう遅いよ。世界遺産にしたってね。」

丘の上からもメインストリートを歩く人の姿がくっきりと見える。生活とは異なる動きというのは、どこかグロテスクだ。世界遺産になり、観光客も増え、御土産物屋も立ち並ぶ。真正面に見える和田家は、ここらの庄屋ではばを効かせていたらしい。「中をみせるようになったのはここ2年ほど、最近だよ。」写真家はぶっきらぼうに答える。

「夕方、明かりがともり始めて、合掌造りの障子がぼーっと明るくなるときがシャッターチャンスなんだよ。」「ライトアップ?あれは一部だけだし、観光用だね。写真としては面白くない。」「朝もはやいと、靄がかかって、合掌の屋根だけが浮かび上がることがあるんだけど、なかなか合掌だけってわけにはいかないよね」

山奥の村、世俗から切り離された村というのは、昔の話。今では除雪され、冬でも観光客は途絶えない。世界遺産に指定されたことで、ますます世俗化されていくのだろうか。生活が変わり、人も変わっていくのだろう。ふっと、相倉のおばあちゃんの顔が浮かび、お嫁さんの顔が浮かんだ。

丘を下りて、荻町神社まで、私も観光客の one of them となる。途中の酒屋で甘酒とどぶろくをはしごして、美濃白鳥行きのバスに乗り込んだ。これから庄川をさらに遡り、そして長良川を下って太平洋まででるのだ。

  そして庄川を上り、長良川を下る
高岡 16:10発 高岡駅前を発車。
砺波
  となみ。
城端 18:00 しろはな。
※五箇山    
相倉口 18:15着  
相倉集落
※合掌造の民宿に一泊
相倉口 11:10発  
下梨   バスのアナウンスで、民謡がながれる。こきりこ節。
上梨    
菅沼    
西赤尾   ここまでが富山県。ここから先は岐阜県。
荻町合掌集落   バス停脇の酒屋では、100円でどぶろくや地酒の試飲ができる。
荻町神社前 12:00着 荻町の南はずれ。
14:15発  
御母衣ダム   ダム、ダム、ダム、、、、いくつの村が水面の下になったのか。植林されていない山肌。
牧戸 15:00過 高山方面へのバスはここで乗り換え。
ひるがの高原 15:30頃

ひるがの高原。
下ると、長良川源流。ここが分水稜なのだ。

美濃白鳥

16:10着

「しろとり」と読む。バスは駅前に到着。
ここから、長良川鉄道に乗り換える。長良川鉄道は北濃駅が終着駅だが、切符売場には「現在北濃〜白鳥間は運宮中」と張り紙がでていた。

16:33発 下校の高校生で占拠されている。うるさい。田舎の高校生などといったら怒られるのかもしれないが、どうしてものんびしているのは否めない。約1時間以上、学生は2人、3人と駅に着くたびに降りていく。
郡上八幡    
  岐阜にでるなら、ここで名鉄に乗り換えた方が早いという。
美濃太田 18:25着  
18:51発 特急。高山・下呂温泉土産の包みも荷棚にあがっている。
名古屋 19:37着  

旅から戻って
旅から戻った次の日、天気予報では日本海側で大雪の予報だ。 あと1日遅ければ、確実に雪に閉ざされていたことだろう。あの里では、雪が合掌の屋根にどしんどしんと積もっていることだろう。小雪がちらつく中歩き回った村、人の生活は今日もたんたんと連なって行く。

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